トロリーとトロッコ 名前の由来を調べている時に、ドコービル鉄軌が様々な書物に登場します。主なものは以下の通りです。

・明治15年発行 「内務省土木局臨時報告 ドコービル鉄路略説」 

・明治41年発行 「実用森林利用学」大西鼎カナエ著 河合鈰太郎校閲

・大正5年発行   「日本大百科事典 第7巻」

・2013年発行  「平野富二伝」古谷昌二編著

 

なぜ、「ドコービル鉄軌」のために一章を作ったのか、百聞は一見に如かず、「内務省土木局臨時報告」に載っている口絵を紹介致します。

 

          

                                  

                                    

 これらが、明治13年頃、仏国ドコービル社代理人仏人のデニー・ラリューによって日本にもたらされます。当初は販売に苦労したようですが、石川島造船所(のちの石川島播磨重工(IHI))オーナーである平野富二が、明治15年の「宮城県野蒜築港計画」の周辺工事に「ドコービル鉄軌」を受注し、日本での専売権を獲得すると、自ら「平野土木組」を設立し鉄道土木に活用します。そして、鹿嶋岩蔵(鹿島建設)が、品川の鉄道建設現場で大々的に採用し、それまで、人肩で人の数を頼んで蟻の如く運んでいた土砂を、軽便軌道を敷設し、手押し運搬車で大量に土砂を運び、土木業界に新旋風を巻き起こしました。それ以来、横浜水道工事、琵琶湖疏水工事、足尾銅山インクラインなど、大型土木事業や運搬軌道などに次々と採用されていきます。

 この、ドコービル鉄軌が紹介されるまでは、鉄道土木の世界では、軌道上で使用する手押し運搬台車として、高島嘉右衛門が「セビ車」、藤田組が「猫車」などを、独自に考案し活用していました。(日本鉄道請負業史明治篇)しかし、全国的に広まるというものではありませんでした。そこに、「ドコービル鉄軌」と「平野富二」がタッグを組んで、土木業界に殴り込みをかけたのです。このあたりの事情は「平野富二伝」古谷昌二編著に非常に詳しく載っています。

 明治元年、北海道の茅沼炭鉱に、日本で初めて、坑口から港まで軌道(木軌)が敷設され、石炭を運ぶために手押し運搬車が使用されます。この軌道を敷設したのは英国人のGowerとScottです。彼らは、このあと佐渡鉱山に向かいます。

 

ドコービルと森林鉄道

 今回の臨時報告の口絵を見て、どこかで見たぞ、と思い出し、過去に読んだ文献をあたり、「実用森林利用学」明治41年発行に行き着きました。河合鈰太郎林学博士が教授をしていた森林利用学教室の教え子が書いた、独逸林学書を日本の事情に合わせて、翻訳・編集した参考書です。ここでは、ドコービル鉄軌を改良した、Joeh式鉄軌が独逸林業で活用されていることが紹介されています。ドコービル鉄軌と森林鉄道が繋がったのです。この参考書が発行された時代は、

・明治29年 神奈川県茨菰山御料林に日本最初の森林軌道(木軌)が敷設される。大日本山林会報第168号にこの軌道を報告した「琴山生記」は、河合鈰太郎のこと。

・明治33年 河合鈰太郎(森林利用学)が、ドイツ・オーストリアに留学(明治林業逸史続による)

・明治34年 帝大卒持田軍十郎が、山林局初の土木技師として入局。翌年、後輩の二宮英雄が採用。

・明治34年 木曽阿寺入御料林に、日本最初の鉄軌による軌道開削。

・明治35年 河合鈰太郎が阿里山の森林調査開始

・明治38年 高野山森林鉄道が開削

・明治39年 二宮英雄が津軽森林鉄道建設の為に異動。

・明治41年 「実用森林利用学」出版(河合鈰太郎が留学中に仕入れた最新の参考書がネタ元?)

・明治42年 津軽森林鉄道完成。冬(雪)に完成したため翌年春に開業。

・明治44年 阿里山森林鉄道建設に、二宮英雄が、河合鈰太郎に請われて、台湾に着任。

こうして並べてみると、河合鈰太郎一家が高野山森林鉄道をつくり、その森林鉄道のネタ元は、ドコービル鉄軌及びその改良版のJoeh式ではないかと思えてきました。