早稲田大学校歌のトリビア (9)前奏と伴奏 について知っていることをぜひ教えてください

 

facebook稲門クラブの鈴木克己さんの2021/08/22の投稿を許可をいただいて転載させていただきます。(転載する場合ご連絡ください。)


入学式や卒業式を始め、吹奏楽などが校歌を演奏する際に弱起プラス8小節の前奏が入ることは皆様よくご存知のことと思います。宴会や路頭など、楽器のない場所で校歌を歌う際にも前奏の旋律を口ずさんでから歌うこともあり、応援部の人がア・カペラ(無伴奏)で校歌を歌うときは必ず前奏から歌われています。

この前奏がいつ成立したのか、詳しいことは分かっていません。1915年(大正4年)に当時電気科の学生で早稲田音楽会の指導に携わっていた前坂重太郎が器楽で校歌を演奏するにあたり作曲者・東儀鉄笛の監修のもと和声の付いた編曲(いわゆる早稲田マーチ)をこしらえた楽譜に前奏があることから、従来はこのときに前坂が新たに作曲し、追加したのだろうと考えられていました。

ところが、明治40年(1907年)に東儀鉄笛が校歌を作曲する際に参考にしたと推測される「Old Yale」の楽譜にも8小節の前奏があることから、校歌の前奏そのものも鉄笛自身が手がけていたのではないか、との可能性が浮上しました。

「Old Yale」の前奏と早稲田大学校歌のそれとは全く同じではなく、共通するのは5~6小節目の「レーミファソラシド|レドレミファ」と音階を1オクターブ駆け上がるところだけです。この部分は「Old Yale」の元歌である「The Brave Old Oak」初版の前奏にはなくて、最初は歌い出しの部分をそのまま導入するだけのメロディーだったのが版を重ねるごとに編曲者により少しずつ手直しされたらしく、オクターブの上昇もあとから追加されて「Old Yale」でもそのまま引き継がれています。

歌の部分の旋律や構成に鉄笛が大鉈を振るったことは先に取り上げましたが、前奏も校歌の先触れとしてふさわしく、感動的な表現が工夫されています。すなわち、冒頭を勇ましいファンファーレに置き換え、それに続いて元々はチャイムみたいな凡庸なメロディーだった3~4小節を「ソ|ミーファミ|ミーレド」と「輝く我らが」を想起させるメロディーでオクターブの駆け上がりにつなげ、「早稲田、早稲田」を連想させる「ミファ|ソファミレ|ミレドソド」のフレーズで歌本体へと導きます。

東儀鉄笛の自筆譜には歌の部分しか書かれていないため、前奏は後から追加されたのだろうと憶測されてしまったのですが、明治40年10月21日の夜半に早稲田と皇居の間を提灯行列が往復する際に歌われたという状況を検証してみると、校歌の演奏は人声だけではなく、鳴り物としての楽器を伴い、前奏によって先導されていた可能性は極めて高いようです。

昼間に行われた創立25周年の各種行事は、余興で演じられた寸劇なども含めて、かなりの写真が残されています。ところが、どうやらこの折りの行列の写真は存在せず、夜の光景は「早稲田学報」11月号の記事でうかがい知ることしかできません。当時の写真乾板は感度が悪いので暗がりで撮影するにはマグネシウムに点火・発光させる必要がありましたから、小雨や強風など天候の関係で夜は撮影できなかったのではないかと見ています。

提灯行列の模様は、この明治40年の前や後の機会に撮影された写真が伝わっており、学生たちが広場に整列し、グループごとに先導役らしい人物が立っているなど、ただ長蛇の列で無秩序に歩いたわけではなく、ちゃんと計画立てて行われていたことが察せられます。

注目すべきは行列の随所随所に喇叭(ラッパ)その他の管楽器や太鼓、シンバルなどを持っている人物が写り込んでいることで、これは歌を歌うときの「合図」や「音取り」の役割を果たしていたようです。

グラウンドなどに集まるのならば、誰か一人が高いところから指示すればア・カペラでも声を合わせることはできますが、縦に長い行列ですから途中途中に楽隊を配置するなど何らかの工夫も必要だったのでしょう。

さらに、放送やカラオケ、オーディオ機器などのメディアが充実している現在とは異なり、音楽に触れる機会も限られていた明治の人々に「音痴」が多かったことは研究書でも明らかにされています。さんざん校歌を歌い込んできた私たち「後輩」とは異なり、できたばかりの曲を十分な練習もせずに大勢で歌わせるには主旋律をなぞるだけでも伴奏が欠かせなかったであろうことは容易に推察できる話です。

この行列、宮城までの行き帰りをまさかずっと校歌だけ歌っていたわけでもないでしょう。疲れて声もかれてしまいますし、同じ歌ばかり繰り返していては飽きてしまうから、休憩を挟んだり、軍歌など他の曲も交えて賑やかに繰り出したのではないでしょうか。

ちなみに、早稲田で提灯行列が行われたのは1902年の創立20周年の記念行事が最初で、実は、その前年の1901年に米コネチカット州のイェール大学創立200周年に招かれた当時の鳩山和夫総長(鳩山由紀夫・鳩山邦夫兄弟の曾祖父)一行が夜半にカンテラを手にした学生たちが楽隊に合わせてカレツヂ・ソングを歌い練り歩く様子を目にしたのがきっかけとなったとされています。

なお、このときにイェールで歌われていたのは「Old Yale」ではなく、カール・ヴィルヘルムが作曲したドイツの軍歌「ラインの守り」を元歌にした「The Bright College Years」だったと考えられます。のちに同志社で英語を教えたイェール出身の講師が母校の学生歌を使えば良いと歌詞を新しくつくってくれたのが、現在でも歌われている「Doshisha College Song」です。

 

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