早稲田大学校歌のトリビア (3)あれ見よ「かしこの」は「あしこの」だった について知っていることをぜひ教えてください

facebook稲門クラブの鈴木克己さんの2021/07/11の投稿を許可をいただいて転載させていただきます。(転載する場合ご連絡ください。)


1907(明治40)年10月21日に初めて校歌が披露されたことは前回触れましたが、本学図書館の特別資料室にはその際配られた紙が保管されていて、歌詞と楽譜(数字譜)が印刷されています。それには3番の冒頭の部分は「あれ見よあしこの」となっており、当日の行事諸々について報告した「早稲田学報」11月号には、夜半に大隈邸の前に集結した学生等が提灯を手に校歌を歌ったとの記述があり、そこに掲載された歌詞も「あしこの」となっていることから、誤植ではなく作詞された当初は「あしこ」だったことが分かります。

早稲田大学混声合唱団の50年史に校歌に関して詳細なレポをまとめたOBの石井洋一さんによると、図書館にある校友やその遺族などから寄贈された当時の「卒業記念写真帖」をたどって行くと、1915(大正4)年の理工科と政治経済学科のアルバムに掲載された歌詞に初めて「かしこ」が登場し、数年のうちに「かしこ」が「あしこ」を駆逐してしまったようだとのことでした。

当時の記録が完全に残っているわけではありませんが、これは大学の告示などで今日から「かしこ」に変えるから云々の指示があって「かしこ」にしたわけではないようです。

その後、創立125周年(校歌誕生100年)を機に活動を開始した校歌研究会の席上、大学史編集所(現在の大学史資料センター)が刊行した「早稲田大学史記要」の中に、大正期に早稲田に在籍していて、のちに職員になった人の座談会が収録されていて、面白いことに、ほぼ同じ時期なのに自分は「あしこ」と歌っていた、「かしこ」と歌っていたと記憶している人が混在していました。これは卒業アルバムの状況とも一致している証言でしょう。要するに、散発的・自然発生的に「かしこ」になっていったらしいのです。

では、どうして「あしこ」が「かしこ」に変わってしまったのか?従来、方々で解説されているのは、1.カナ書きの「アシコ」が「カシコ」と誤読された、2.当時一般に用いられていた変体仮名の「阿し古」が「可し古」と誤読・誤記された…と、書き言葉に原因を求める説があります。

これに対して、私は校歌が誕生以来取り扱われ、学生たちの間で受け継ぎ伝われてきた状況に着目するならば、言い間違い・聞き間違いという「伝言ゲーム」が原因ではないかと見ています。

校歌誕生から数年間、大学が楽譜を配布したり、歌唱指導を徹底した…といった形跡はなく、学生たちが自主的に勝手に歌っていたという話は前回書きました。つまり、歌詞カードを渡されたり作曲者の東儀鉄笛から直接練習指導を受けたり、早稲田音楽会声楽部(グリークラブ)の試演を聴いたりして正しく歌っていた初代の先輩たちが卒業していくと、あとは口承という聞き覚えにより思い出しながら歌わざるを得なかったわけで、ここに「あしこ」変容の鍵があるのではないでしょうか。

これとは反対に、歌ではありませんが、「教育勅語」の文言が時代や地域によって変わってしまった、違っていた…なんて事態が起きなかったのは、各学校で原本(のコピー)を厳重に保管し、時折取り出しては奉読し、書写・暗唱させるという管理・指導が徹底していたからに他なりません。こういったチェックはこと早稲田の校歌の初期において全くなかったのは確かです。

「あしこ」「かしこ」とも、源氏物語や伊勢物語に使用例がある「遠称の指示代名詞」で、いずれも話し手・聞き手ともに離れた場所を指し示す「あそこ」を意味します。「あしこ」は上方の方言として定着し、「かしこ」の方が全国区になって、明治・大正期でも一般的な使用頻度に大きな差が生じていたのでしょう。これは国語研究所のデータベースなどで計量的に把握できるのではないかと思います。

一般に歌詞というものは文字や単語の羅列として機械的に把握し、覚えるということはありません。外国語の曲を丸暗記させられる場合ならともかく、通常は描かれた情景や感情と結び付いて言葉が発せられるものです。

となりますと、ほら見てごらん、あそこだ、あの場所だよ、いつまでも変わらぬ(早稲田の)森は…といった感慨によって歌が再現される際、原本を欠いた状態では、無意識のうちに創作してしまう、ことばの取り違えが生じてしまう可能性は高くなってくるはずです。

「早稲田大学百年史」では、あしことかしこと二通りの歌い方があるが、本来相馬御風は「《あ》れみよ《あ》しこの」と韻を踏んで敢えて聞き慣れぬ「あしこ」を採用しているのだから、「かしこ」では作歌の狙いを生かしていないことになる、と解説しています。

時代は下って1957年に早稲田で初めて学生による第九交響曲が上演されたとき、校歌も歌おうと練習を始めたらサークルや個人ごとに歌い方にバラツキが出て、当局に元の正しい楽譜を見せて下さいと問い合わせたら、そもそも学校にも保管されていないことが分かって、すったもんだの末に東儀鉄笛の5男・仁五郎さんの手元に自筆の楽譜があるのを取り寄せたら「あしこ」となっているので、それなら正調でやろうと「あしこ」で歌うようになったら、古参の校友から「今の若い連中は、校歌を変な風に変えて歌っている、けしからん」と苦情が来た由。要するに、自分が慣れ親しんだものが正しい、一番だという感情も絡んでくるのでしょう。

今さら「かしこ」を間違い呼ばわりする必要もないと思いますが、校歌誕生に関わった坪内逍遥、島村抱月、東儀鉄笛、相馬御風の墓前祭で献歌するときは、「あしこ」のオリジナルを踏襲するのが先人への礼儀かと思います。

校歌の歌い方が長年の間に変わってしまっている話については、いずれご紹介させて頂きたく。では。

 

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