早稲田大学校歌のトリビア (2)songとanthem について知っていることをぜひ教えてください

facebook稲門クラブの鈴木克己さんの2021/07/04の投稿を許可をいただいて転載させていただきます。(転載する場合ご連絡ください。)


早稲田の校歌こそ「校歌の中の校歌」だ……こう自負している方も多いのではないでしょうか。一方、世間一般が受け止め、取り扱う校歌の在り方や立ち位置と早稲田の校歌のそれを比べてみますと、「校歌らしい校歌」とは異なる点も見えてくることが分かります。

幼稚園や保育園にも「園歌」はあるでしょうけれども、お遊戯の一環みたいなもので、経営が宗教がらみでもない限り、「大切な歌」「重要な曲」といった意味合いはないでしょう。

それが小学校に上がると、入学式や卒業式といった行事・式典と結び付いたイメージで校歌を意識するようになります。公立ではどこでも同じようですが、講堂や体育館のステージに演壇が据えられて壇上には松の盆栽、傍らには校旗がスタンドに立てかけられ背後には日章旗、校長や来賓の挨拶…。歌詞をもじって卑猥な言葉で替え歌などつくれば教師にこっぴどく叱られそうな空気はあったかと思います。

要するに、粗末に扱ってはならぬという暗黙の了解・ルールを伴って小中高と校歌はanthemとしての機能を果たしていたのではないでしょうか。

これが早稲田の門をくぐると状況は様変わりして、学内の行事・儀式はもとよりコンパ、路上にスポーツ観戦…卒業してからも冠婚葬祭ありとあらゆる場面で歌われ、演奏されています。

「葬」と書きましたが、筆者も実際、在学中にクラスメイトが交通事故で亡くなったときにご遺族のたっての希望で校歌を歌ったことがあり、「こういう時にいいのかな」と一瞬頭をよぎった覚えがあります。ところが、ずっと後になって、校歌を作曲し1925年に急逝した東儀鉄笛の葬儀で出棺にあたり当時早稲田の学生だった三男の栄三郎さんと学友たちが校歌を歌って見送ったという故実があることを知りました。早稲田のVIPの追悼式が学内で執り行われる際も校歌の奏楽は欠かせないようです。

私たちは校歌とは当然そういうものだととらえているのですが、よそではそうでもないようです。例えば、1940年に制定された慶應義塾の「塾歌」(信時潔作曲・富田正文作詞)は酒席・路頭で高歌放吟しないという不文律があり、もっぱら式典でのみ歌唱するという、まさにanthemの性格が色濃い曲と言えます。

これはどちらが良い正しいといった問題ではなく、校歌・塾歌そもそもの成り立ちや育て方の違いに過ぎません。慶應の場合、学校の管理・肝いりで取り扱う面が大きかったのとは対照的に、時期・歴史も異なりますが、早稲田では、最初から校歌に対する大学当局の関わりが希薄で学生やその周辺が主体となって校歌を受け継ぎ、育てて行った経緯があります。

もともと1907年の創立25周年を機に「カレツヂ・ソング」を募集するときの文面では儀式にも用いると書いておきながら、実際のデビューは創立記念日の「寸劇」と夜半の「提灯行列」、その後も学生が下宿で部屋の掃除をしながら鼻歌で歌ったり、酒席で騒ぐような形で伝わるものの、学内では行事で歌うどころか歌詞や楽譜を毎年印刷して配るなんてことも一切なく、初めて行事で校歌が奏楽されるのは1915年のことです。

また、企業の社歌や宗教団体の会歌みたいに、組織の構成員の自覚や結束を促す目的で歌われる音楽の場合、外部に広まったりすることを忌避するものですが、早稲田の場合、校歌を学生・教職員・校友のみが歌う門外不出の秘曲とはしなかったようです。一例を挙げると、1913年11月に大隈さんが九州地方を視察した際、佐賀県の鳥栖駅駅頭で演壇に上がるときと汽車が駅を出発するときの2度にわたって地元の学童数百人が早稲田の校歌を歌って歓送迎したそうですから、かなり早い時期から早稲田の校歌はコマーシャル・ソングとしての役割を果たしていたことになります。

こうやって並べてみますと、早稲田大学校歌はanthemというよりもsongとしての性格や役割が今でも強いと言わざるを得ません。「塾歌」と「若き血」を使い分ける慶應とは反対に、「校歌」も「紺碧の空」も同じ愛唱歌として分け隔てしないのが早稲田の流儀と申せましょう。

本学の関係者以外にも校歌の歌詞や旋律が広まっていった理由や背景についてはいずれ取り上げてみたいと思います。

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早稲田大学校歌のトリビア


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