工事中

 

数ある高野山森林鉄道の謎の中で、筆者最大の関心事が、神谷インクラインの終焉です。

大正2年8月に運用が始まって以来、おおよそ40年に渡り働いてきました。しかしながら、手元にある資料では、「高野山国有林 昭和18年版」に掲載された「神谷固定インクライン」の、設置年・幅員・延長などを紹介した記事を最後に、本文から「神谷インクライン」という文言が消えてしまいます。「林道設備」(路線の一覧表)の項目では、「高野営林署直営生産事業概況書 昭和29年版」に極楽橋線  自「幹線インクライン下」至極楽橋駅として登場するのが最後となっり、昭和31年に高野林道幹線全線自動車道化が完成し、軌道が全廃(と言う事は、もし稼働していたとしても、神谷インクラインもこの時に廃止)されます。

神谷インクラインとして、空白の昭和18年から昭和31年の間に、大きな変化として、昭和25年度の6林班線が登場があります。  

路線網 6林班線            
名称 位置 種類 延長 m 新設年度 備考  
高野林道 6林班線 6林班内 軌道 1,131 昭和26 昭和26年調査  
6林班線 高野林道幹線の一部変更により6林班線を1,131mを新設 昭和26年調査  
六林班線 自 幹線分岐線
至 三林班内
軌道 1,131 昭和26 昭和26年調査  
6林班線 自 極楽橋駅
至 3林班内
軌道 1,131 昭和25 昭和29年調査  
  自 細川
至 7林班
自動車道 8,344 昭和30~31 昭和31年調査  
 
出典 S2611外業完了 高野経営区 第七次経営案説明書 実行期間 昭和27-36年度 高野営林署
  1951 高野営林署直営生産事業概況書(昭和26年11月)
  1954 高野営林署直営生産事業概況書(昭和29年1月)
  S3111外業完了 高野経営区 第八次経営案説明書 実行期間 昭和32-41年度 高野営林署

 

下図に現在の神谷周辺のweb地理院地図を示します。

   

・明治38年度:官行斫伐開始時は、キンマルート①→②→③でした。(廃道なので地図に載っていません)現ルート①→④→⑤は存在していませんでした。

・大正2年度:幹線軌道化が完成時に、キンマが廃止され、軌道ルート①→④→③が新規開削されました。それでも、現在のルート④→⑤は存在していませんでした。

・大正14年:これまで神谷→極楽橋には、赤線の京・大坂道の参詣道しかありませんでした。この年、バスルート⑤→⑥が新規開削され、神谷から極楽橋まで乗合バスが運行されるようになりました。その後、昭和4年に南海高野線が極楽橋駅を開設すると、このバスルートは廃れました。

・昭和25年度:高野林道幹線の一部変更により、軌道ルート④→⑤が新規開削され、軌道ルート①→④→⑤→⑥が完成します。軌道ルート④→⑤→⑥が6林班線です。

・昭和30~31年:昭和25年度に完成した軌道ルート①→④→⑤→⑥を含め、幹線全線が自動車道化され、現在の高野林道幹線自動車道のルートが完成します。

 

6林班線開削の目的と幹線との接続時期

 昭和25年度に高野林道幹線の一部変更により新規開削された、ルートであり、3林班線の様に「3林班の大森林の木材を運び出すため」のように、6林班の木材を運び出すためでなく、「軌道ルート④→③を迂回する」為に開削されたルートです。端的な言葉で表すと

・神谷土場を使わない(地点③を使用しない)

・神谷隧道を使わない(地点④-③間を使用しない)

・神谷インクラインを使わない(地点③の先を使用しない)

ための6林班線と言う事です。

 

6林班線への3林班線の接続時期

 3林班線は、明治時代から24区線の木馬道として使用され、木材は神谷土場に運ばれていました。6林班線が開削された同年度に、2,000mを軌道に改良され、昭和27年度には全線3,683mが軌道となります。注目したいのがルートの書き方です。昭和27年に改良されるまでは、「自 幹線 至 3林班内」だったのですが、改良直後は「自 6林班終点 至 3林班」となります。非常に細かい事なのですが、非常に重要な記述の変更です。昭和27年に3林班線の接続に大変更が加えられたのです。ここは想像なのですが、これまで、幹線に接続され、神谷土場経由神谷インクラインに運ばれていた3林班の木材は、3林班線全線軌道化と共に、6林班線に接続先が変更されたのです。

昭和25年度に、塵無を出発した幹線は、6林班線に接続されます。これで幹線は、神谷土場・神谷インクラインを経由しなくなります。次に、昭和27年度に、3林班線が6林班終点に接続します。これで、神谷土場に入線していた2線両方が6林班線に接続され、神谷土場も神谷インクラインを卒業したと思われます。

 

6林班線と極楽橋線との接続

 ここまで、6林班線の一端である神谷側を追求してきました。次に、もう片方の一端である極楽橋側を考察します。極楽橋線は、昭和5年度に軌道路線として開削され、インクライン下(浦神谷)から極楽橋南詰まで、不動谷川左岸を進みます。一方、6林班線は、神谷は新規開削されますが、切通しから極楽橋右岸までは、大正14年に高野山参詣自動車が開削した自動車専用道を利用して軌道が敷設されたと思われます。昭和4年に極楽橋駅が開設されてから、高野山参詣自動車は電車との競争に破れ、このルートは廃れていたと思われます。現在では、昭和31年に架設された「新極楽橋」で6林班線と極楽橋線は接続されていますが、それまでは、極楽橋川上側で接続されていました。新極楽橋付近では、両岸の高さが大きく違っていて、接続は困難だったようです。

 時期は不明ですが、極楽橋線は軌道から牛馬道に改良されます。昭和25年度に、6林班線に幹線が接続された時は、極楽橋線は牛馬道でした。トロリー→牛馬→トロリーとなり、この積替え問題以上の問題が何かあったために6林班線が開削されたと思われます。そして、3林班線が全線軌道となり、6林班線に接続されると、とうとう極楽橋線は軌道に改良され、再び、幹線全線軌道化が果されます。 

 

最大の謎・6林班線が開削された理由

 6林班線は、神谷土場・神谷インクラインを経由しないために開削され、昭和25年度に幹線が、昭和27年度に3林班線が接続されて、昭和27年度に極楽橋線が軌道化され、再び幹線全線軌道化が果されます。しかし、なぜそのような事が必要だったのかと言う事が、最大の謎として残ってしまいました。これまでの調査で、唯一あったのが、たった一言、「高野林道幹線の一部変更」です。昭和25年度にあった大きな出来事は、9月のジェーン台風です。不動坂の木々が倒される被害が発生しています。

 3林班線が神谷土場を使用していることから、神谷隧道に何らかの被害が発生し、それを避ける為に6林班線が開削され、その運用実績から、3林班線も全線軌道化、6林班線への接続、極楽橋線の軌道化を実施したと想像します。