このページは、矢部三雄農学博士より戴いた情報を元に作成させて頂きました。この場にて感謝申し上げます。ありがとうございます。

 

 明治19年 「大林区署小林区署」官制が敷かれます。現代の森林管理局にまでつながる国有林管理体制の始まりです。高野山では、和歌山大林区署高野小林区署が山上に置かれます。当時、官林の開発方法は、山に生えている木(立木)を伐採する権利を民間に売払い、伐採と運材は民が行い、造林(植林)は官が行うというものでした。高野町史近現代年表によると、上知(上地)すぐの明治4年に、官林立木売払いの入札が行われています。

 明治19年 和歌山出身で当時農商務省東京農林学校の学生だった川瀬善太郎が、高野山国有林の森林調査報告を行っています。(彼はのちに日本最初の林学博士の一人となります)字袈裟掛石、字五本松、字児ヶ瀧、字天狗ヶ嶽の4字を担当しています。この調査で、高野山国有林内の陸上運材の主流は「地車」と「キンマ」だと記しています。出典:「大日本山林会報第58号」 明治19年12月発行「紀伊国高野山所見」川瀬善太郎

 

               川瀬善太郎が調査したところを図示しました。赤丸印が調査した四カ所の字です。12林班の字袈裟掛石から町石道を辿り、峠を越えると、大門を遠望する鳴戸谷が眼前に広がります。     

                                                       

 明治20年 「高野小林区署」最初となる官林立木払下げが行われます。場所は「大門浦成子谷官林」です。出典:「下古沢中心誌」大正12年発行 井浦杢太郎著。和歌山の木材商が購入し、実際の伐木と運材を担ったのは、奈良県大滝村の土倉庄三郎と思われます。彼は、この高野山で、日本で初めて大規模に木馬道を築設して、その実用性を証明したと考えています。

 

「大門浦成子谷官林」とはどこか?

出典の「下古沢中心誌」は、毛筆草書体まじりで書かれています。「高野山大門浦✕子谷官林」とは翻刻できたのですが、どうしても✕が読めませんでした。そこで、いろいろ考えました。

             

「大門浦」とは

 「浦」という文字は、海辺では「湾」「入江」などの意味で用いられますが、内陸では、おもて・うらの「裏」の当て字に用いられる場合があります。浦神谷も本来は「裏神谷」です。ですので、「大門浦」は、「大門の向こう側(ウラ側)」という意味だと解釈できます。

「✕子谷官林」とは

 高野村の字名を当たりました。高野町史に字名を載せた地図があります。「✕子谷」に合致するのは「内子谷」で、場所は、「大門」の南東側に尾根一つ越えた谷になり、林班で言うと40林班付近、花坂線の湯川隧道東側出口のある所です。

            

            出典:web地理院地図 白・紺文字は筆者記入

大門の真南で近いのですが、尾根筋を越えた向こう側となるので、大門に立つと直接は見えません。大門に立って眼前に広がる大森林は、真西に向いた「高野町」と書かれた谷となりますので、「大門浦」に続く地名としては、今一つしっくりこない場所です。

そんな時、矢部三雄農学博士より「紀伊国名所図会」の該当箇所とともに以下のビッグニュースを頂きました。

 

「✕子谷」は「成子谷」ではないか。

理由は、「紀伊国名所図会」に描かれる大門の横に「鳴子川ナルコカワ」が描かれています。現代では「鳴戸川ナルコガワ」と表記されています。これを「下古沢中心誌」の著者が、音が同じ「成子ナルコ」と書いたと考えられます。

 

            

               出典 紀伊国名所図会 三編四之巻下 11コマ目 町石道(ゴマダンの図)(国会図書館デジタル)

 

このビッグニュースに触れて、早速、「紀伊国名所図会」と「紀伊続風土記」を読み返しました。

「紀伊国名所図会 三編四之巻下 6コマ目 「鳴子川」」によりますと

紀伊国名所図会の当該巻は、矢立から大門に向かう町石道を紹介しています。鏡石を過ぎ、猿渡を過ぎ、鳴子川を紹介し、関屋へと進んでいます。

「鳴子川」 (町石道から見て右の方カタ渓間にあり) 当山御朱印の縁起には鳴川ナルカワとあるをいつの頃よりかいひあやまりて鳴子川ナルコカワと号ナヅく花坂の氏神鳴川ナルカワ明神むかし此川に光を放ちて遊び給ひしを御告にまかせ花坂へ勧請しけるとぞ又鳴子ナルコ川とは此川水の音鳴子ナルコのごとく聞ゆる故に土人しかいひならはせりともいふ(按するに鳴子ナルコは鳴河ナルカワの義なり河を音便オンベンにかうといふより約ツヅめてことも訛ヨコナマれる例多し)

 

「紀伊続風土記 巻之四十九 伊都郡第八 長谷荘 花坂村 村中谷川」によりますと

源は湯川領筌尾ウエオより出つる谷川と高野山大門より出つる谷川と村の巽出合といふ處にて落合ふ合流の處音あり名つけて鳴川といふ是より乾に流れて中村に至り曲折して諸谷の水を合せ長谷荘に注く

 

まとめますと、

弁天嶽を最高峰とする、大門の西方に広がる谷を源流とする川を、古は、鳴河ナルカワと呼び、音が訛ってナルコと変化し、鳴子の字が当てられ、鳴子川ナルコカワと書かれるようになり、この谷の名前となった。そして、「下古沢中心誌」の著者が、「鳴子谷ナルコタニ」と音が同じ「成子谷」と書いた。「紀伊国名所図会」にも書かれているのですが、昔(といっても明治時代くらいまで)は音が大切でした。耳で聞いたことを文字にするので、漢字は書きて次第でした。例えば、カミヤと聞いて、神谷・紙屋ならまだしも、大正二年の木曽山林学校の修学旅行生は「上野」と書いています。ことほど左様に、鳴子=成子は充分起こる事です。林班で表現すると13~17林班に渡ります。

          出典 web地理院地図 白・紺文字は筆者追加

「花坂線」の開削当初は、細川-矢立-鳴子谷終点までを「花坂線」と呼び、15林班で分岐して40林班までを「花坂線延長」と呼んでいました。その後、細川から40林班までを「花坂線」とし、鳴戸谷を走る部分を「大門支線」と呼ぶようになりました。

〇花坂線の第一目標は、鳴戸谷の伐木運材にあった。

〇大門支線の名前の由来は、大門の眼前に広がる鳴戸谷、或いは「大門浦鳴戸谷」にあった。

〇この鳴戸谷が、明治20年に高野小林区署として初めて立木払下げした記念すべき場所であり、それから約40年で原点に返ってきたことになります。

 

閑話休題

現在、町石道とされている参詣道の内、大門に辿り着く直前は、高野山道路の谷下から大門に登って来る道です。しかし、「紀伊国名所図会」では、この道は「古道」と記されていて、使用されていない様子です。実は、「紀伊国名所図会 三編」が出版された1838年天保九年頃は、矢立から町石道を登ってきますと、鏡石から大門寄りの所で、左に分岐して、大門と弁天嶽の中間あたりに登る道が参詣道でした。大門へは現在の弁天嶽から下ってくるルートで入って行きました。残念ながら、現在では、このルートは高野山道路に分断されてしまい、辿ることは出来ません。