高野山森林鉄道開発史

第六期「運用延長最大期

概要  高野山森林鉄道は、一の枝川まで東廻りで開発を進めてきました。九度山から見ると高野山の真裏にあたります。そこで、一の枝川以西の開発は、東廻りの延伸ではなく、細川出合から分岐して西廻りで進めることになります。矢立を隧道で抜け、鳴戸川沿いに東進し、最上流の湯川辻まで進むと、高野山森林鉄道最長約600mの湯川隧道で抜け、東隣の内子谷川に達します。そして北上し最上流の40林班、霊宝館裏に到達します。昭和3年に着手し、昭和7年に成功します。途中大門支線などいくつかの支線も開削しつつ延伸しました。相ノ浦口から南に延びる稜線を挟んで、西廻り線と東廻り線が対峙することになります。これで高野山国有林全山を巡る森林鉄道の延伸が終了します。

 昭和に入り、高野山に機械化の波が押し寄せます。昭和3年にガソリン機関車が配備され、4年にガソリン機関付集材機(Clyde iron Work Sales製集材機Waukesha製ガソリンエンジン)が配備・実験されます。昭和3年から着手された花坂支線は、内燃機関車導入を前提として設計されていると推測されますが、東廻りの林道幹線はトロッコの手乗り下げ・牛曳きが前提なので、機関車では登れない勾配もありました。一の枝川の隧道西口の初期軌道は勾配が急なため、機関車運材できなので、ルートに工夫が凝らされます。初期ルートでは、39林班山元を出発したトロッコは、延々と牛に曳かれて引かれて北に登り、隧道西口を上に見ながら一旦通り過ぎ、高度を上げてから東斜面を引き返してきました。改良ルートでは、山元を少し進んだ所で、東(右)側の斜面を巻揚げインクラインで隧道の高さまで一気に曳揚げたのです。神谷とは逆です。インクライン上から隧道西口は水平なのでトロッコで進み、機関車は隧道西口前の回転台で方向転換して待機していました。林野庁HPに森林鉄道の写真や動画を集めたページがあります。高野山関係は隧道口の写真が3枚アップされているのですが、右端の高野山林道2の写真に回転台が写っているので、昭和4年頃の隧道西口の写真と思われます。

 集材機は極楽橋付近に配備され、紅葉谷の急斜面で活躍したようです。昭和4年発行の大阪営林局機関誌「みやま」では、巻頭に新設インクラとして巻揚げインクラの生写真が紹介され、翌年にはクライド社製集材機と巻揚げインクラの運用実験報告が掲載されています。

 大正7年頃に、東廻りの林道幹線が終点の39林班山元に到達し、昭和7年に、西廻りの花坂支線が成功したことで、大戦中を経て、戦後の昭和26年頃のトラック運材に移行する準備が始まる直前までが、軌道運用延長の最長期となります。

  昭和14年度大阪営林局統計要覧 高野作業所        幹線    26.011km 支線     16.059lm 計42.070km

  昭和24年大阪営林局統計書   高野事業区       一級線35.279km 二級線8.408km 計43.687km

実は上記のルートは明記されていません。以下のように想像してみました。 

       幹線26.011km:入郷土場から隧道西口を経由し新ルートの巻揚げインクラインに至るルート

       支線16.059km:花坂支線・大門支線・鳴戸川支線・四林班線などの合計

 

路線1 40林班~湯川隧道~細川出合   区分 軌道/延長 12.195km

その他 大門支線 鳴戸川支線(花坂線は支線を成功させつつ延伸したようです。) 

出典:みやま(大阪営林署機関誌 昭和4年発行) 

36林班の巻揚げインクラインと推定されます

出典:国有林の展望(大阪営林局編 昭和27年3月発行)

出典:伊都橋本木材誌(伊都橋本木材協同組合 昭和61年5月発行)

 

参考文献(追加)

・地理院地図(現在)

・国有林土木事業(大阪営林局統計書昭和3~7年度)

・巻頭写真(みやま 大阪営林局機関誌・昭和4年発行)

・ガソリン集材機に就て(高野営林署・みやま・昭和5年発行)

・Y211型集材機使用について (高野営林署事業課・林業機械化情報No38)

・高野山国有林林道明細(伊都橋本木材誌・昭和61年5月発行)

・官行斫伐事業箇所一覧(大阪営林局統計要覧昭和14年度)

・林道の現況(大阪営林局統計書昭和24年)

・高野営林署の歩み(和歌山森林管理署高野事務所・平成13年7月発行)