高野山森林鉄道開発史では、「牛馬道」「木馬道」「軌道」「森林鉄道」など「道」の用語が多数出てきます。これらの用語は、いったい、いつ、だれが決めたのか考えたことありませんか?

まず、これらの「道」を総称する用語として「林道」があります。

ネットで検索してみると、「林道とは、森林の整備・保全を目的として森林内に設けられる道路のことで、一般的には、全幅員3.0メートル以上の自動車道になります。(徳島県庁コールセンターより)」など、判りやすい説明が出てきます。

この「林道」というカテゴリーの中に様々な「道路」が「区分」されています。この「区分」は道路の設計基準や資産価値を定めるために必要です。簡単に言うと、人の歩く歩道と、車の走る車道では、道幅など必要な道路構造が異なる為、「林道」を目的に合わせて「区分」したのです。今では林道=山の中を自動車で走る道のイメージだと思いますが、事の初めは、まだ自動車の無い明治時代から始まります。

 

 明治10年代までは、木曽式運材法が主流で、わざわざ搬出用道路を開削するということを考えていませんでした。唯一「木馬道」くらいでしょうか。明治20年代になり官行斫伐が進められ、搬出用道路(当時は牛馬道や歩道)が造林費という科目の中で細々と開削され始めました。高野山では「木馬道」が発達します。そして、いよいよ明治32年に国有林野法及び森林資金特別会計法が成立し、国有林特別経営事業が開始され、大規模な林道事業が計画されます。そして、「林道」を規程する法律が出来上がります。

 「軌道」の初出で、現代の「林道規程」のご先祖様と言われている法令です。

明治35年12月 林発1843号 林道工河川工取扱ニ関スル手続 (林道事業のあゆみ より要約)

  第12条 林道築造ハ左記各項ノ標準ニ拠ルヘシ

   第一 林道ノ種類ハ左ノ5種トス

   (1)軌道(2)車道(3)牛馬道(4)歩道(5)木馬道

   第二 幅員ハ車道9尺、牛馬道6尺、歩道及木馬道4尺トス但シ木馬道ニテ牛ヲ使役スルトキハ6尺トス

ここの「車道」とは、荷車の事です。当時は、自動車はまだ走っていませんでした。現代でも「荷車」マークが残ってますよね。自動車の走る道は「自動車道」です。

 次に「鉄道」についてですが、まず、以下の法令が定められます。

明治39年12月29日 農商務省訓令第41号 国有林事業予定案規程 (山林公報 明治40年第2号より要約)

 次に、この中の「第25条 造林第2部ヲ類別シテ左ノ項目ニ別ツ」という条文の詳細を定めた法律が作られます。私の知る限り、最も古い「鉄道」が掲載された法令です。

明治42年3月18日 林発第74号山林局長ヨリ各大林区署長ヘ通牒 国有林事業予定案規程中造林第2部事業取扱手続ノ件 (山林公報 明治42年第9号より要約)

  第14条 林道事業ハ左記各号ノ標準ニ依リ設計スヘシ

  1 林道幅員 鉄道 第1制限 9尺/第2制限 12尺  軌間は2呎6吋ヲ以テ標準。3呎6吋(も可能)

                                      軌道 第1制限 6尺/第2制限  9尺  軌間は2呎6吋ヲ以て標準。2呎(も可能)

  2    林道勾配 鉄道 第1制限 1/100/第2制限 順1/25 逆1/200

                                      軌道 第1制限 1/80  /第2制限 順1/12 逆1/100 

          3 林道曲線半径 鉄道 第1制限 120尺/第2制限 60尺

                                                軌道 第1制限  30尺/第2制限  15尺

外に、車道・木馬道・牛馬道・歩道も各項目が定められていますが、割愛しました。。

 これまで、「鉄道」については、明治35年に「軌道」が定められて以来、以下の昭和28年の建設規程まで、いつ、どのように定められたのか私には判りませんでした。ようやく、少なくとも明治42年に、簡易的な規格も含めて定められたことが判りました。明治29年に日本で初めて茨菰山御料林で軌間473mmの森林木軌道が敷かれ、明治34年に阿寺入御料林で日本で最初の軌間610mmの森林鉄軌道が敷かれ、明治38年に国有林で最初の軌間762mmの森林軌道が高野山に敷かれ、木曽御料林で小川森林鉄道の第一期工事が始まり、津軽森林鉄道が建設真っただ中と言う時期です。この通牒では、軌条については何も書かれていませんが、別の法令で定めたものがあるのかもしれませんが今のところ不明です。

 

 残るは、昭和24年の大阪営林局統計書に出てくる、森林鉄道1級線・2級線の根拠です。統計書を見る限り、幹線または9kg軌条を1級線、支線または6kg軌条を2級線と区分しているように見えます。少なくとも、明治28年建設規程の、2級線=9kg軌条以下の区分とは異なります。どんな法令があるのやらないのやら。

 

付録

昭和22年7月25日農林省訓令第113号 国有林野事業特別会計計理規程より要約 別表第3号 固定資産耐用年数に

「林道」:「森林鉄道」「自動車道」「車道」「索道」「木馬道」「牛馬道」

が掲載されています。そして、国有林と御料林が統一されたのち森林鉄道の規格が統一されます。

昭和28年12月28日林野第21642号 森林鉄道建設規程より要約

国有林野事業の森林鉄道の線路、建造物及び車両の建設基準を定め・・・。

森林鉄道は、1級線、2級線の2等級とする

ゲージ(軌間):762mm

最小半径:1級線 30m/2級線 10m

最大勾配:1級線40/1000/2級線50/1000

軌条:1級線 10・12・15・22キロ/2級線 手押車両専用線 6キロ その他 9キロ

その他細かな規格が示されています。

 

注意

あくまでも、わたしの知識でのことですので念のため。これをきっかけに史実が判れば幸いです。

個人的には、日本で最初の森林鉄道である、津軽森林鉄道開業(明治43年5月)前に定められていたのですっきりしました。

 

最後に

 そもそも、林発第74号通牒を見つけることができたのは、「大正5年発行 森林土木工学全書第三巻 林道・橋梁及森林鉄道編 石丸文雄著」(国会図書館デジタル)のおかげです。素晴らしい教科書で、大学のテキストに使われていたのではないかと思えるよう著作です。勉強のために冒頭から読もうとして、たった4コマ目に「明治42年3月18日 林発第74号山林局長ヨリ各大林区署長ヘ通牒 国有林事業予定案規程中造林第2部事業取扱手続ノ件」が記載されていました。林道の区分 12コマ目/幅員 13・14コマ目/勾配 25コマ目などに記載が見られます。289コマ以降、森林鉄道についても土木工学の側面から詳しく記述されていています。

 この素晴らしい著作を書いた石丸文雄氏とはいかなる人物か調べてみました。和田国次郎氏以来、著者のよって立つところが非常に重要だと気付いたからでもあります。すると、あっという間に判明しました。「同窓生が語る宮沢賢治 盛岡高等農林学校と石丸文雄教授と宮沢賢治(15) 若尾紀夫著 北水会報 2016年発行」に詳しく書かれていました。経歴を要約しますと、 

 石丸文雄氏は、明治4年福井県に生まれ、明治29年東京帝国大学農科大学林学科を卒業、陸軍歩兵連隊に入営。除隊後、林務官として青森・岡山・鳥取・大阪・東京の大林区署で勤務、明治36年盛岡高等農林学校創立と同時に林学教授として赴任。明治39年ドイツ留学。明治43年帰国。大正4年宮沢賢治の入学時の面接官だった。大正8年林学博士となるも同年亡くなった。とあります。明治38年に木曽支局長を務めた和田国次郎氏が慶応2年生まれですので、石丸氏は和田氏の6年後輩、ほぼ同時代人です。林業土木を目指すもの全てドイツ留学です。

 国立公文書館に、「盛岡高等農林学校教授林学博士石丸文雄叙勲ノ件 大正8年8月」という書類簿が残されています。この中にいくつか書類がありますので引用します。石丸氏の命日は大正8年8月2日です。

・大正八年八月一日 盛岡高等農林学校教授陸軍歩兵少尉正五位勲六等林学博士石丸文雄儀ハ叙勲以来常ニ職務ニ精励シ勲労尠カラズ叙勲内則ニ照シ進叙ノ定限ニ達セル者ニ有之候処目下病気危篤ニ陥リ候趣ニ付テハ此際特ニ勲五等ニ叙シ瑞宝章ヲ授ケラレ度此段允裁ヲ仰ク

・盛岡高等農林学校教授林学博士石丸文雄叙勲ノ件 右謹テ裁可ヲ仰ク 大正八年八月二日 内閣総理大臣原敬 

・大正八年八月二日 八月二日裁可 賞勲局総裁上申 盛岡高等農林学校教授正五位勲六等林学博士石丸文雄儀ハ叙勲以来常ニ職務ニ精励シ勲労尠カラズ叙勲内則ニ照シ進叙定限ニ達セル者ニ有之候処目下病気危険ニ陥リ候趣ニ付テハ此際特ニ勲五等ニ叙シ瑞宝章ヲ授ケラレ度此段允裁ヲ仰ク