長野県長野市在住のIさんに、修学旅行記の情報を教えて頂きました。この場を借りてお礼申し上げます。また、このような貴重な史料をネット公開して頂いた「木曽山林資料館」様にもお礼申し上げます。

 

国有林として、日本でもっとも古くから開発されてきた場所の一つが「木曽谷」です。明治9年頃から開発が始まっています。そして、明治34年に創設されたのが「木曽山林学校」です。その資料館ホームページが以下になります。

http://kisosanrin1901.org/

設立の経緯やエピソードはホームページ内の以下の記事に譲りますが、大日本山林会報第220号 明治34年4月発行の記事によりますと、「第一期生募集定員50名に対して70名の応募が既にあり、更に増えつつある。」とあり、大人気の学校だったようです。

http://kisosanrin1901.org/%e5%b1%b1%e6%9e%97%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e6%ad%b4%e5%8f%b2%e3%81%ae%e4%b8%ad%e3%81%ae%e3%82%a8%e3%83%94%e3%82%bd%e3%83%bc%e3%83%89/

高野山との関係は、設立直後の明治36年から修学旅行コースに高野山が組み込まれたところから始まります。私が調べただけでも、明治36年(第三号)・明治44年(第二十号)・大正2年(第四十五号)・大正8年(第百十八号)に高野山を訪れています。これらの訪問記が、「木曽山林学校公友会会報」に報告されています。これだけに資料を収集して公開できるとは、凄い事です。大日本山林会にも負けません。

http://kisosanrin1901.org/%e6%9c%a8%e6%9b%bd%e5%b1%b1%e6%9e%97%e5%ad%a6%e6%a0%a1%e3%83%87%e3%82%b8%e3%82%bf%e3%83%ab%e3%82%a2%e3%83%bc%e3%82%ab%e3%82%a4%e3%83%96/

 

ほとんどが、吉野林業を見て高野山にも立ち寄るパターンなのですが、明治36年は、4月26日に出発し帰校が5月12日。吉野の視察では、吉野の山林王土倉庄三郎が直接公演を行い、高野山を見た後、第五回内国勧業博覧会の見学まで行っています。教育にどれだけ力を入れていたか、これを見ただけでも判ります。

彼らから高野山がどのように見えていたのか、逆に、当時の高野山はどんな様子だったのかを紐解いて見ます。

 

会報第三号 明治36年9月発行 4月26日出発 5月12日帰校

要約 高野口駅から椎出経由長坂を登って神谷に至る。ここから見る高野山の林相は、木曽谷の阿寺御料林や瀬戸川御料林に似ている。不動坂は扁柏(ヘンパク・ヒノキ)の単純林。そして高野に入り持明院に泊る。木曽よりも高度が高い。扁柏・杉・金松(キンマツ・高野槙)・樅(モミ)・栂(ツガ)・松の天然金剛林。樹齢215-280年。国有林は27の区に分割して管理されている。苗園は20区にあり面積は1町6反。有名な林産物としては扁柏や高野槙の皮を剥いで作る縄がある。近来下戻し事件の為、各種作業を中止している。

解説 明治38年に官行斫伐が開始される直前の様子です。軌道はまだ敷設されていません。おそらく運搬は木馬道です。林班ではなく区で管理されています。

 

会報第二十号 明治44年6月発行 5月23日出発 6月3日帰校

要約 高野口駅で下車。九度山官行伐木所用林道を辿り高野山へ向かう。山麓まで約1里に軽便鉄道が敷設され、伐木場から山麓までは木馬道。木馬は人又は牛が曳くものあり。人が曳く場合は、尺〆11本約700貫目なり。

解説 全線軌道化に向けての工事中の期間に当たります。ですのでインクラインは登場しません。軽便鉄道は入郷土場から椎出土場のルートで、木馬道は長坂ルートです。 

 

会報第四十五号 大正2年7月発行 5月14日出発 5月25日帰校

要約 高野口駅下車。葛城館に荷物を預ける。九度山の大阪大林区高野小林区署に至る。「高野の森林」という小冊子を元に杉坂署長から説明を受ける。高野山は、道脇は植林されているが、ほとんどが天然林。寺領だったおかげ。山はここから丁度三里奥にあり。伐採開始は明治38年。保護されていたので木材運搬道が無く、伐採と同時に道を造った。塵無伐木所より1里は、当初は木馬道でしたが、軌道に直し、山の向こう側は牛が曳き上げます。17ー20尺〆位です。塵無ー椎出間の約三里は木馬道です。木馬一台六-七尺〆。トロ一台約十尺〆。軌道連絡工事は大正1年に完成。本年より運用開始の予定。軌道は木馬道を直しているので改良の余地あり。木馬は軌道を敷設できない急傾斜地に最適。貯木場は面積二町六反歩。五万尺〆保管可能中一万尺〆貯蔵。造材材積査定は伐木地で一回のみ。

貯木場から椎出までは軌道に沿って一里歩き、椎出からは参詣道を神谷まで行く。ここから軌道を行き、塵無運材事務所で軽便軌道運転の実況を視察。道をかへして奥の院の裏手より入り、無明橋を渡り、中の橋に出て復軌道に従って進み苗園に到着。山に従って第三十六林班伐木地にて実地説明を受ける。その後苅萱堂付近に帰り持明院に投宿。

翌日、神谷インクライン迄徒歩。軌道運搬の切落しとも称すべき所。長さ170尺が二条。トロリー一台約六分で移動。索道の音を聞きながら下山。

解説 幹線全線軌道化工事が完成し、まさに運用開始直前の時期。明治39年には「高野の美林」と称したパンフレットが、ここでは「高野の森林」となっています。大正1年度に予定通り全線軌道化やインクラインも成功しているようですが、問題があり運用はされていない様子。後世の記録では8月から運用開始されています。

 

第百十八号 大正8年8月発行 5月15日出発 帰校日不明

要約 高野口駅で下車。駅前の自動車・人力車多数。高野小林区署で署長より説明有。森林軌道を伝って、神谷の制動斜面を視察。軌道延長十四哩四分。九度山貯木場から二十六林班まで。神谷は九度山から百二十町。斜面延長百六十二間。この斜面を這い登り参詣道に出る。

運材至便の為、伐採後1日で大阪市場に出すことが出来る。

解説 この時期は、39林班山元が既にあったと思われるのですが、幹線延長は26林班までの23.0kmと紹介されています。インクラインの急斜面を這い登っています。

 

以上のように、これまでの調査結果と照らし合わせながら読ませて頂くと様々なことが判ってきます。特に大正2年の修学旅行記では、私のバイブルである明治39年に作成された「高野の美林」の小冊子が、「高野の森林」と少し名前を変えて続いていることが判りました。また、明治45年完成予定だった全線軌道化が、実は予定通り完成はしたけれど、立て付けが悪かったのか、改修に時間がかかり、開業が遅れてしまったらしいということまで判りました。

 

2020年7月